職場という緊張感のある場から離れると、意識しない限り、声を出して笑う機会が減っていく人が少なくありません。定年退職後は一日の中で人と接する時間そのものが短くなりやすく、それに伴って笑う回数も自然に減っていきます。しかし、笑いやユーモアには、気分を和らげるだけでなく、心身の状態を整える働きがあることが分かってきています。ここでは、退職後の生活に笑いを取り戻す具体的な工夫を紹介します。
退職後、なぜ笑う機会が減るのか
会社員時代は、同僚との雑談や、上司の冗談への愛想笑い、後輩とのやり取りなど、意識せずとも笑う場面が日常の中に散らばっていました。退職すると、こうした人との接点が一気に減り、一日を通して誰とも言葉を交わさない日も出てきます。笑いは基本的に他者とのやり取りの中で生まれやすいものなので、人と接する機会が減ることが、そのまま笑う機会の減少につながっているのです。
笑うことが体にもたらす働き
声を出して笑うと、横隔膜が大きく動き、呼吸が深くなります。この深い呼吸は、緊張した体をゆるめる働きがあり、笑った後に体が軽く感じられるのはそのためです。また、笑っている間は考え事から一時的に離れられるため、頭の中で繰り返し考えてしまう悩みごとから距離を置く時間にもなります。日常的に笑う機会が多い人ほど、気分の落ち込みが長引きにくいという報告もあり、笑いは単なる娯楽以上の役割を担っています。
ある元教員の男性の場合
四十年近く中学校の教員を務めた六十代の男性は、退職後、自宅で過ごす時間が増えるにつれ、表情が乏しくなったと家族に指摘されるようになりました。心配した娘に勧められ、地域の高齢者サークルが開いている「笑いヨガ」の教室に参加してみたところ、最初は照れくさかったものの、参加者同士で理由もなく笑い合ううちに、自然と表情が和らいでいくのを感じたといいます。教室に通い始めて数ヶ月後には、家族との会話でも冗談を口にする回数が増え、「自分でも驚くほど気分が軽くなった」と話しています。
お笑いや落語など「見て笑う」楽しみ方
テレビの演芸番組や寄席、落語会など、見て笑う形のエンターテインメントを生活に取り入れることも、手軽に笑いを増やす方法の一つです。地域の公民館やホールでは、シニア向けの落語会や漫才ライブが開催されていることも多く、外出のきっかけを兼ねて足を運ぶ人もいます。一人で見るよりも、友人や配偶者と一緒に見て感想を言い合う方が、笑いの効果とともに会話も増えるという相乗効果が期待できます。
孫や子どもとの会話から生まれる笑い
子どもや孫との会話は、大人同士では出てこないような素直な発言や意外な視点に触れる機会が多く、自然な笑いが生まれやすい場でもあります。孫との付き合い方・距離感で紹介したように、頻繁に会えなくても、電話やビデオ通話で他愛のない話をするだけで、思わず笑ってしまう瞬間が生まれることがあります。年齢の離れた相手との会話は、こちらの発想を柔らかくしてくれる働きもあります。
友人との雑談が笑いの機会を増やす
気心の知れた友人との会話は、遠慮のない冗談や思い出話から自然に笑いが生まれやすい場です。退職後の友人関係の作り方で紹介したように、定期的に会う友人関係を持っておくことは、笑う機会を保つという点でも意味があります。特に、共通の失敗談や若い頃の思い出話は、何度話しても笑いが起きやすい鉄板の話題として重宝されます。
笑いと認知機能の関係
誰かと会話をしながら笑うという行為は、相手の言葉を理解し、状況を判断し、適切な反応を返すという一連の頭の働きを伴います。認知症予防のために今からできることで紹介したように、こうした会話のやり取りは、頭を働かせる機会として認知機能の維持にもつながると考えられています。難しい問題を解くことだけでなく、人と笑い合う何気ない会話も、頭を使う立派な活動の一つです。
一人の時間にも笑いを取り入れる
一人で過ごす時間が多い人でも、笑いを取り入れる方法はあります。好きなお笑い番組を録画して見る、昔読んだ四コマ漫画を読み返す、面白かった出来事を思い出して一人で笑ってみるなど、他者がいなくても実践できる工夫は意外と多くあります。退職後の一人時間との付き合い方で紹介したように、一人の時間を寂しいものではなく、自分のペースで笑いを楽しめる時間として捉え直すこともできます。
気分が落ち込みやすいときこそ意識したい
退職後の生活の変化に戸惑い、気分が沈みがちになる時期には、笑うこと自体が難しく感じられることもあります。退職後うつ・燃え尽き症候群のサインで紹介したような不調のサインが見られる場合は、無理に笑おうとするより、まずは体調そのものに向き合うことが先決です。一方で、軽い気分の落ち込みであれば、意識的に笑える場に身を置くことが、気分の切り替えにつながることもあります。
ユーモアのある会話を心がける
笑いは受け取るだけでなく、自分から生み出すこともできます。日常の小さな失敗談を面白おかしく話してみる、真面目な話の中に軽い冗談を挟んでみるなど、ユーモアを意識した話し方を心がけると、周囲との会話が和やかになります。年齢を重ねるほど、深刻になりがちな話題も多くなりますが、それを重くしすぎず、時に笑いに変えて話せる人は、周囲からも話しかけやすい存在として親しまれやすくなります。
ある元自営業の女性が続ける「笑いの記録」
長年小さな商店を営んでいた六十代の女性は、店をたたんだ後、しばらく一日中誰とも話さずに過ごす日が続いていました。近所の友人から誘われて参加した公民館の「大人の落語鑑賞会」がきっかけとなり、月に一度、笑うことだけを目的にした外出の予定を持つようになったといいます。それ以来、その日聞いた話の中で一番面白かった一言を小さなノートに書き留める習慣も始め、「今月はこんなことで笑ったな」と振り返るのが楽しみになったそうです。笑った内容を記録することで、日々の生活の中に「笑いを探す視点」が加わったと本人は話しています。
体を動かしながら笑う機会を作る
ダンスや軽い体操、卓球など、体を動かす活動の中にも笑いが生まれやすい場面が多くあります。うまくいかない動きを互いに笑い合ったり、思わぬ失敗を面白がったりすることで、運動そのものの負担感が和らぎ、続けやすくなるという効果もあります。真剣勝負ではなく、参加者同士が気楽に楽しめる雰囲気のある教室やサークルを選ぶことで、体を動かす習慣と笑う機会を同時に得ることができます。
よくある質問
Q. 一人だとどうしても笑う機会がありません
A. お笑い番組や落語の録画を見る時間を、生活の中に決まった枠として組み込んでおくと、意識せずとも笑う機会を確保できます。動物の動画など、他愛のないもので構いません。
Q. 笑いヨガのような集まりに参加するのは抵抗があります
A. 最初は誰もが照れくさく感じるものです。見学だけの参加や、少人数のグループから試してみると、心理的な負担が少なく始めやすくなります。
Q. 冗談を言っても周囲の反応が薄いことがあります
A. 全員に受けることを目指す必要はありません。一人でも笑ってくれる相手がいれば、その関係を大切にする方が、無理なく続けられます。
笑いやユーモアは、意識しなければ日々の生活からすり減っていってしまうものです。人との会話や娯楽を通じて、笑う機会を少しずつ生活に取り戻していくことが、心身の元気を保つ助けになります。
実際に笑いやユーモアを生活に取り入れている方の体験談も取材しています。ご自身の経験を話してみたいという方は取材にご協力ください。


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