定年後、通勤で歩く機会がなくなり、気づけば1日中家の中で過ごす日が増えたという声はよく聞く。若いころなら何でもなかった段差のつまずきが、60代になると骨折につながることがある。転倒は高齢者にとって単なるケガでは済まず、寝たきりの入り口になりかねない。自宅でできる環境整備と簡単な運動で、転倒のリスクを日々の暮らしの中で減らしていきたい。
高齢になってからの転倒がなぜ危険か
消費者庁の統計では、65歳以上の高齢者の事故のうち「転倒・転落」が最も多く、そのうち約半数が自宅内で起きている。若い世代であれば打ち身で済むような転倒でも、骨密度が下がった60代以降では大腿骨頸部骨折につながりやすい。大腿骨頸部を骨折すると手術と長期のリハビリが必要になり、そのまま歩行能力が戻らず要介護状態に移行するケースが少なくない。日本整形外科学会の資料でも、大腿骨頸部骨折後1年以内に約1〜2割の人が亡くなるという報告があり、転倒は命に関わる問題として捉える必要がある。
ある元銀行員の64歳女性は、リビングの敷物の端に足を引っかけて転倒し、手首を骨折した。「会社勤めのころは歩数計で1日8000歩以上歩いていたのに、退職してからは3000歩程度に減っていた」と振り返る。筋力の低下に気づかないまま生活していたことが、とっさに体を支えられなかった原因の一つだったという。骨折後は手首にギプスをつけた状態が6週間続き、その間は料理や家事のほとんどを夫に頼らざるを得なかった。退院後の生活の不便さを経験して以降、毎朝ラジオ体操と片足立ちを日課にするようになったという。
自宅の環境整備で転倒リスクを減らす
転倒事故の多くは、廊下と部屋の境目のわずかな段差、電気コードの引っかかり、暗い廊下での踏み外しといった、日常の見慣れた場所で起きている。玄関の上がり框や浴室の出入り口には手すりを設置し、段差が避けられない場所にはスロープや段差解消プレートを置くと安全性が上がる。介護保険の住宅改修費支給制度を使えば、要支援・要介護認定を受けている場合、手すりの取り付けなどの費用の一部について自治体から助成を受けられることもある。
照明も見落とされがちなポイントだ。夜間にトイレへ行く際の廊下が暗いと、足元の障害物に気づきにくい。人感センサー付きのフットライトを廊下やトイレの入り口に設置するだけで、夜間の転倒リスクはかなり下がる。床に置いた電気コードやカーペットの端は、つまずきの原因になりやすいため、配線をまとめる、滑り止めテープを貼るといった対策も有効だ。浴室の床には滑り止めマットを敷き、靴下や靴底がすり減った履物は早めに買い替えたい。
自宅でできる筋力トレーニングとバランス訓練
転倒予防には、下半身の筋力とバランス感覚を保つ運動が欠かせない。特別な器具がなくても、自宅で毎日続けられる運動はいくつもある。
片足立ち
テーブルや壁に軽く手を添えた状態で、片足を床から5〜10cm浮かせて1分間キープする。左右それぞれ1分を1日3回行うのが目安で、太もものつけ根や足首まわりの筋肉を刺激し、バランス感覚を鍛える効果がある。慣れてきたら手を離して行うと負荷が上がる。
かかと上げ運動
椅子の背もたれに手を添えて立ち、両足のかかとをゆっくり上げ下げする。ふくらはぎの筋肉を鍛えることで、歩行時の踏ん張りが利くようになる。10回を1セットとして1日3セット程度から始めるとよい。
スクワット(椅子スクワット)
椅子に座る動作をゆっくり繰り返すことで、太ももとお尻の大きな筋肉を鍛えられる。膝がつま先より前に出ないよう意識しながら、椅子の座面すれすれまで腰を下ろし、また立ち上がる。10回×2セットを目安に行うと、階段の上り下りが楽になったと感じる人が多い。
これらの運動は、加齢に伴う筋肉量の減少であるサルコペニアの予防にも直結する。テレビを見ながら、歯磨きをしながらといった「ながら運動」として取り入れると継続しやすい。
継続のコツ
運動が長続きしない最大の理由は、効果を実感しにくいことにある。1日おきでもよいので歩数計やスマートフォンのアプリで歩数を記録し、週単位で振り返ると変化が見えやすくなる。NHKで長年放送されているラジオ体操を朝の習慣にするのも、全身運動として転倒予防に役立つ方法の一つだ。近所を一緒に歩く仲間がいると、雨の日以外は続けやすくなる。地域の公民館やスポーツセンターで開催されている高齢者向け運動教室に参加するのも選択肢になる。
継続する上では、体調の変化にも注意したい。ふらつきやめまいが続く場合は、耳の奥にある平衡感覚をつかさどる器官や血圧の問題が隠れていることもあるため、まずはかかりつけ医で相談し、必要に応じて耳鼻咽喉科や循環器内科を受診するとよい。足腰の痛みが続く場合は整形外科や理学療法士による運動指導を受けると、自己流で無理な負荷をかけるよりも安全に筋力を取り戻せる。日々の運動習慣づくりや、足のトラブルを防ぐフットケアも合わせて意識すると、転倒予防の効果はより高まる。
骨密度と持病のチェックも忘れずに
転倒したときの被害の大きさは、骨の強さにも左右される。閉経後の女性はホルモンの変化で骨密度が急激に下がりやすく、男性も70代以降は骨密度の低下が進む。自治体の健康診査には骨粗鬆症検診の項目が含まれていることがあり、多くは5000円前後、もしくは無料で受けられる。5年ぶり、10年ぶりに骨密度を測ってみたら想像以上に下がっていたというケースは珍しくない。数値がYAM値(若年成人平均値)の70%を下回ると骨粗鬆症と診断される目安になり、薬による治療や食事療法が検討される。カルシウムやビタミンDを意識した食事に加えて日光を浴びることも、骨の健康維持には役立つ。
血圧を下げる薬や睡眠薬の中には、立ちくらみやふらつきを起こしやすいものがある。服用している薬がある人は、めまいや立ちくらみの副作用がないか、かかりつけの薬剤師に確認しておくと安心だ。糖尿病で足先の感覚が鈍くなっている場合も、段差に気づきにくく転倒リスクが上がるため、定期的な内科の検査と合わせて足の感覚をチェックしておきたい。
よくある質問
Q. 運動はどのくらいの頻度で行えばいいですか。
A. 片足立ちやかかと上げのような軽い運動であれば毎日行っても問題ない。週2〜3回のスクワットのような少し負荷のある運動を組み合わせると、無理なく筋力を維持しやすい。
Q. 膝や腰に痛みがある場合も運動していいですか。
A. 痛みがある場合は自己判断で続けず、まず整形外科を受診して原因を確認したほうがよい。痛みの種類によっては運動の種類や負荷を調整する必要があり、理学療法士の指導を受けると安全に継続できる。プールでの水中歩行のように関節への負担が少ない運動から始める方法もある。
Q. 夜間のトイレでの転倒が心配です。何か対策はありますか。
A. 寝室からトイレまでの動線に人感センサーライトを設置し、床に物を置かないようにするのが基本だ。夜間だけ使うポータブルトイレを寝室に置く選択肢もあり、家族と話し合いながら生活動線を決めていくとよい。スリッパは脱げやすく転倒の原因になりやすいため、かかとまで覆う滑り止め付きの室内履きに変えるだけでも効果がある。
実際に転倒をきっかけに運動を始めた体験談も取材しています。ご自身の経験を話してみたいという方は取材にご協力ください。


コメント