定年退職前に人間ドックを受けておくという発想は、すでに広く知られるようになった。ただし人間ドックの標準コースでカバーされる項目は、胃・大腸・血液・心電図といった全身の主要な病気の早期発見が中心で、退職を機に会社の健康保険組合や補助制度から外れると受けにくくなる検診が他にもいくつもある。在職中は健保組合の付加給付や人間ドック補助の対象になっていた検査が、退職後は全額自己負担になるケースが多く、費用と手間の両面で「在職中に済ませておいたほうが良かった」と感じる人は少なくない。
脳ドック:症状が出てからでは遅い検査
脳ドックはMRI・MRA検査によって脳梗塞の前段階である無症候性脳梗塞や、破裂すると命に関わるくも膜下出血の原因になる未破裂脳動脈瘤を、自覚症状が出る前に見つけるための検査だ。費用は施設によって2万〜5万円程度で、人間ドックの標準コースには含まれていないことが多く、オプションとして別料金になっている。60代は脳血管疾患のリスクが40〜50代に比べて明確に上がる年代であり、高血圧や糖尿病の指摘を受けたことがある人、家族に脳卒中の既往がある人ほど、在職中の健保組合補助が使えるうちに受けておくと、退職後に自己負担で受診するより数万円単位で費用を抑えられる。健保組合によっては人間ドックの受診券とは別枠で、脳ドックやがん検診に使える補助券を用意している場合があるため、退職前に人事担当者や健保組合の窓口で「使っていない補助制度」を確認しておく。
骨密度検査:自覚症状がないまま進む骨粗しょう症
骨密度検査は、骨折してから初めて骨粗しょう症に気づく人が多い病気を、事前に発見するための検査だ。とくに女性は閉経後に骨密度が急激に低下しやすく、60代前半での骨密度測定は今後の生活設計にも関わってくる。会社員時代は健保組合の特定健診に骨密度測定のオプションが付いている場合があるが、国民健康保険に切り替わった後の特定健診では、骨密度検査が標準項目に含まれていないことが一般的だ。整形外科や人間ドック施設で自費受診すると3千〜1万円程度かかるため、在職中の健保組合の補助が使える間に受けておくかどうかを、退職日までに判断しておく。
歯科の総点検:退職後は歯科通院の優先順位が下がりやすい
歯科検診は人間ドックのコースにほとんど含まれておらず、多くの人が「痛みが出てから歯医者に行く」という受診パターンになっている。定年退職を機に生活リズムが変わると、通院の習慣そのものが途切れやすく、歯周病の進行に気づかないまま数年が経過するケースがある。歯周病は放置すると歯を失うだけでなく、誤嚥性肺炎や糖尿病の悪化にもつながることがわかっている。在職中に歯科健診を受ける制度がある企業は限られるが、退職前の数か月間に一度、レントゲンによる歯周ポケットの検査と歯石除去を済ませておくと、退職後の通院頻度を減らせる。ある元事務職の61歳女性は、在職中は歯科通院を先延ばしにしていたが、退職後に歯茎の腫れで受診したところ、奥歯2本が歯周病で抜歯となった。退職前に一度歯科でレントゲンを撮っていれば、抜歯に至る前の段階で対処できた可能性が高いという。
聴力検査:加齢性難聴は本人が気づきにくい
加齢性難聴は徐々に進行するため、本人よりも周囲の家族が先に気づくことが多い。会話が聞き取りにくくなっていても「相手の話し方が悪い」と感じてしまい、検査を受けるきっかけを逃しやすい。人間ドックの聴力検査は、オージオメーターで1000Hzと4000Hzの純音を聞き取れるかどうかを調べる簡易な項目にとどまることが多く、実際の会話音域である会話音声の聞き取りにくさまでは把握できない場合がある。難聴を放置すると、認知機能の低下との関連も指摘されているため、退職後に耳鼻咽喉科での精密な聴力検査を受け、必要であれば補聴器の相談につなげる人もいる。補聴器の選び方を早めに知っておくと、実際に必要になったときの判断がしやすくなる。
眼科の精密検査:白内障・緑内障は自覚症状が出にくい
視力検査は人間ドックの標準項目に含まれているが、緑内障の早期発見に必要な眼底検査や眼圧検査、視野検査まで含まれているとは限らない。緑内障は視野の一部が欠けても脳が補正してしまうため、本人が異常に気づきにくく、日本人の40歳以上の約20人に1人が罹患しているとされる。白内障も60代になると発症率が上がるが、進行が緩やかなため見え方の変化に慣れてしまい、受診が遅れがちになる。人間ドックの後にオプションで眼科の精密検査を追加するか、退職前に一度眼科を受診しておくと、加齢による目の変化への対応を早い段階から始められる。
前立腺・婦人科検診も見落としやすい
男性の前立腺がんは60代から罹患率が上がるが、PSA(前立腺特異抗原)検査は人間ドックの標準コースにオプションとして付いていない施設もある。血液検査に1項目追加するだけで数千円程度の費用で済むため、人間ドックの申し込み時に追加できるか確認しておく。女性の場合は、乳がん検診(マンモグラフィ)や子宮頸がん検診が、勤務先の健保組合によっては自治体のがん検診クーポンと重複していることがあり、どちらを使うべきか迷う人もいる。自治体のがん検診は退職後も国民健康保険の被保険者であれば引き続き利用できるが、健保組合独自の上乗せ補助(検査項目の追加や自己負担の減額)は退職と同時になくなるため、在職中に一度受けておくかどうかを比較しておく。
健保組合の補助制度は退職と同時に使えなくなる
在職中に加入している健康保険組合の中には、人間ドックの費用補助とは別に、脳ドックや歯科検診、骨密度検査に使える付加給付制度を設けているところがある。この補助は健保組合の被保険者であることが条件になっているため、退職して健康保険の切り替えをした時点で使えなくなる。退職日が確定したら、健保組合のマイページや総務担当者への確認で「今年度まだ使っていない補助はないか」を洗い出し、使い切れるものは退職前に予約を入れておくと、数万円単位の自己負担を減らせる。
検診の予約は逆算で動く
脳ドックやMRI検査は人気の高い施設では1〜2か月先まで予約が埋まっていることがあり、退職日の直前に思い立っても間に合わない場合がある。定年前の人間ドックの受け方を軸にしながら、脳ドック・骨密度・歯科・聴力・眼科の検査を、退職日から逆算して3〜4か月前にはスケジュールを組んでおくと、複数の検診を分散させて受けやすい。退職前に一通りの検査を済ませておくことは、退職前チェックリストの健康関連項目としても位置づけておくとよい。
よくある質問
Q. 人間ドックのオプションで全部まとめて受けられますか。
A. 施設によっては脳ドック・骨密度・聴力検査をオプションとして同時に予約できるが、歯科検診だけは別途歯科医院での受診が必要になることが多い。人間ドックの予約時に、追加できる検査項目を確認しておく。
Q. 退職後に受けても遅くないのではないですか。
A. 検査自体は退職後でも受けられるが、健保組合の補助が使えなくなるため自己負担額が上がる。国民健康保険や任意継続に切り替わった後の特定健診には、骨密度や脳ドックが含まれていないことが一般的だ。
Q. どの検査を優先すべきか迷った場合はどうすればいいですか。
A. 血圧や血糖値の数値に指摘を受けたことがある人は脳ドックを、閉経後の女性は骨密度検査を優先する人が多い。かかりつけ医に、これまでの健診結果を見せたうえで優先順位を相談すると判断しやすい。
実際に退職前に脳ドックや歯科検診を受けた体験談も取材しています。ご自身の経験を話してみたいという方は取材にご協力ください。


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